日本列島の北端、岩手県でつくられている「南部鉄器」。鉄を素材にした鋳物で、江戸時代に大名たちの間で流行していた「茶の湯」をきっかけに生まれた。茶の湯文化のあるアジアをはじめ、海外からも人気を集めている。
盛岡市にある「鈴木盛久工房」は、江戸時代から約400年続く南部鉄器の老舗。代々受け継がれてきた伝統を守りながら、新しい感性を取り入れて、鉄の特性を生かしたものづくりを行っている。
南部鉄器の歴史とともに歩んできた工房
鈴木盛久工房の歴史、それはすなわち南部鉄器の歴史と言っても過言ではない。
南部鉄器の前身となる盛岡の鋳物は17世紀初期、岩手県北部を治めていた南部藩主が京都から釜師を招いて茶の湯釜をつくらせたのが始まりとされている。その後、日本各地から多くの鋳物師や釜師が呼び寄せられ、お互いに切磋琢磨しながら南部鉄器の礎を築いた。
その1人が、1641年(寛永18年)に、南部家の本国甲州から御用鋳物師として召し抱えられた鈴木縫殿家綱である。鈴木家は代々鋳物師として南部藩に仕え、仏具、梵鐘などを鋳造してきた。茶の湯釜や鉄瓶も手がけ、数々の名品を残している。
1974年には、13代盛久(鈴木繁吉)が南部鉄器業界で初となる国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定され、名工「鈴木盛久」の名を不動のものとした。13代鈴木盛久は茶人でもあり、茶道の「わび・さび」を感じさせる多くの名品を生み出している。
14代盛久(鈴木貫爾)は、東京芸術大学の教授を務める一方で、造形作家として活躍し、伝統的な技法にモダンな風を吹き込んだ。東北新幹線盛岡駅開通の記念モニュメント「フクロウの樹」を製作したことでも知られている。
現当主は15代目・熊谷志衣子氏で、南部鉄器史上初の女性釜師だ。女性ならではの優美で繊細なデザインを得意とし、軽やかさや温もり、柔らかさを表現している。
このように鈴木盛久工房では、当主が変わるごとにそれぞれの個性を発揮して、新たな作風を生み出してきた。現在、志衣子氏とともに、まもなく16代目を継ぐ鈴木成朗氏、若手職人らが技を磨き、鉄素材の持つ新たな可能性に挑戦している。
ものづくりへの妥協なき精神が生み出す逸品
鈴木盛久工房のつくる南部鉄器の鈴木盛久工房でつくられる南部鉄器の特長の一つが、無駄のないシンプルなフォルムと奥深い錆色だ。実用的でありながらも洗練された美しさを兼ね備え、現代の暮らしにもすんなりなじむ。
鉄製の南部鉄器は、重くて使いづらいというイメージを持たれがちだが、鈴木盛久工房の南部鉄は従来のものに比べて軽い仕上がりなので扱いやすい。一般的には3~4ミリくらいの厚みのものが多いが、こちらでは2~2.5ミリくらいにして軽量化に取り組んでいる。
さらに、きめ細やかな美しさを表現するために細かい砂を使う。しかし、砂が細かすぎると、鉄が溶けて固まるときにガスが溜まりやすくなり、ひび割れたり壊れたりする危険がある。そうしたリスクを回避するために、鋳型の製作から、鋳込み、着色に至るまで、100もの工程を経てつくり上げているのだという。
また、その表面をお歯黒で着色することで、長年使い続けたかのような味わい深い色合いを実現し、繊細な紋様をより美しく見せている。こうした他にはない色味や質感、表情が、鈴木盛久工房の南部鉄器の魅力だ。それはまさに、ものづくりへの妥協なき精神と職人技の結晶と言えるだろう。
南部鉄瓶で贅沢なひとときを
南部鉄器の代表的な製品といえば鉄瓶だ。鉄瓶とは茶釜から発展したもので、つると注ぎ口のついた鋳鉄製の容器を指す。ケトルと同じように直接火にかけてお湯を沸かすことができる。
南部鉄瓶で沸かしたお湯は角のとれたまろやかな味に変化する。これは、鉄瓶の鉄分がお湯に溶け出すとともに、水に含まれるカルキなどの不純物が鉄瓶の内側に吸着されるからだ。おいしいだけでなく、鉄分補給にも役に立つ。
鉄は元来錆びやすい金属だが、鉄瓶の内側には「金気止め(かなけどめ)」と呼ばれる処理を施している。金気止めとは鉄瓶を炭で焼き、酸化皮膜で覆う技法のこと。この仕上げにより金属を錆びから守るのだ。
南部鉄瓶は手入れが難しそうと思うかもしれないが、扱い方のルールは至って簡単。長時間水を入れっぱなしにしないこと、空焚きしないこと、鉄瓶の内側に触らないことだけだ。耐久性に優れており、正しく使用すれば、次の世代まで引き継ぐことができるだろう。
使い込むほどに味わいが深まる、一生ものの南部鉄器。鉄瓶で沸かしたお湯で淹れるコーヒーやお茶の味は格別だ。
岩手県盛岡地方で、江戸時代から400年続く南部鉄器の老舗。1641年(寛永18年)に、鈴木縫殿家綱が本国甲州より御用鋳物師として召し抱えられて以来、代々鋳物師として南部藩に仕えてきた。昔ながらの技法を受け継ぎながら、現代のライフスタイルに溶け込む南部鉄器をつくり続けている。
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